見どころ:浅草寺の宝蔵門

浅草寺(東京・台東区) 見どころ
浅草寺(東京・台東区)

東京下町ガイド の「見どころ」カテゴリ では、東京下町の観光名所を紹介しています。あなたの東京観光におすすめなスポットを毎回 1 か所取り上げます。

今回取り上げるのは、台東区にある 浅草寺(せんそうじ)の 宝蔵門(ほうぞう もん)です。

宝蔵門は、浅草寺の本堂の前にある巨大な 2 階建ての門です。この⾨の 2 階には、国の重要⽂化財である経典「元版⼀切経(げんばん いっさい きょう)」が保管されています。

この経典の歴史をたどると、北条政子(ほうじょう まさこ)にたどり着きます。彼女は、10 世紀に鎌倉幕府を開いた 源頼朝(みなもと の よりとも)の正室です。有名な歴史上の人物が浅草寺と関係しているのは意外かもしれませんね。

この記事では、浅草寺の宝蔵門の詳細を紹介します。あなたが東京下町めぐりや浅草観光をする際の参考にしてください。

なお、この記事は英語版もあります。詳細については、つぎの記事を参照してください。

歴史

浅草寺(東京・台東区)
浅草寺(東京・台東区)

浅草寺によると、宝蔵門の歴史は 10 世紀までさかのぼります。そして、その歴史には、平将門(たいら の まさかど)の乱で活躍した武将が関わっています。

935 年(承平 5 年)、平将門の乱が起こりました。関東の豪族である平将門が京都の朝廷に対して反乱を起こしたのです。彼は、関東の大半を占領して独立国家を作ろうとしました。

940 年(天慶 3 年)、朝廷は平将門の乱を鎮圧しました。その鎮圧に貢献した武将の 1 人が 平公雅(たいら の きみまさ)です。彼は平将門の従兄弟です。

同年、その功績により、平公雅は 安房国(あわ の くに)の (もり)に就任しました。安房国は、現在の千葉県の南部です。また、守は一番位の高い役人です。

しかし、平公雅は、武蔵国(むさし の くに)の守になりたかったのです。武蔵国は、現在の東京都、埼玉県、そして、神奈川の一部の地域です。

941 年(天慶 4 年)、平公雅は、浅草寺で自分の出世を祈願しました。942 年(天慶 5 年)、彼は武蔵国の守に就任することができました。そのため、彼は浅草寺にとても感謝しました。

平将門の乱により、当時の浅草寺は荒廃していました。そこで、平公雅は浅草寺の再建に力を注ぎました。

942 年(天慶 5 年)、平公雅は宝蔵門を建てたました。宝蔵門の当時の名前は 仁王門(におう もん)です。その理由は、この門には、仏教の守護神である仁王像が安置されていたためです。

宝蔵門は焼失と再建を繰り返しています。最後の被害は、1945 年(昭和 20 年)の東京大空襲です。この空襲により、浅草寺だけでなく、東京は大きな被害を受けました。

1964 年(昭和 39 年)、宝蔵門は現在のものに建て替えられました。その際、仁王門から宝蔵門に名前が代わりました。

見どころ(注目点)

元版⼀切経

浅草寺は、宝蔵⾨の 2 階に仏教の経典「元版⼀切経(げんばん いっさい きょう)」を保管しています。この経典は、国の重要⽂化財に指定されています。

浅草寺によると、元版⼀切経はもともと 鶴岡⼋幡宮(つるがおか はちまんぐう)にありました。鶴岡⼋幡宮は、神奈川県の鎌倉にある神社です。

鶴岡⼋幡宮に元版⼀切経を奉納したのは、北条政⼦(ほうじょう まさこ)です。彼⼥は、⻑男の 源頼頼家(みなもと の よりいえ)を供養するために中国から元版⼀切経を取り寄せました。

北条政⼦は、鎌倉幕府を開いた 源頼朝(みなもと の よりとも)の正室(妻)だった⼈です。また、源頼頼家は、鎌倉幕府の第 2 代将軍だった⼈です。

1868 年(明治元年)、明治政府は 神仏分離令(しんぶつ ぶんり れい)を発令しました。これは、神道と仏教、神さまと仏さま、そして神社と寺院を明確に区別する法律です。

神仏分離令は、廃仏毀釈(はいぶつ きしゃく)をもたらしました。廃仏毀釈は、神社から仏教の影響をなくそうとすることです。

廃仏毀釈により、鶴岡⼋幡宮にあった元版⼀切経は処分されることになりました。1871 年(明治 4 年)、貞運尼(ていうんに)という、浅草寺の尼僧が元版⼀切経を買い取りました。

貞運尼は、元版⼀切経を浅草寺で保管しようと考えました。しかし、元版⼀切経は 5458 巻もあります。それを鶴岡⼋幡宮から浅草寺に運んだのが 新⾨⾠五郎(しんもん たつごろう)です。

新⾨⾠五郎は、浅草の町⽕消の親分だった⼈です。また、彼は 浅草神社(あさくさ じんじゃ)の境内に 被官稲荷神社(ひかん いなり じんじゃ)を建てた⼈でもあります。

被官稲荷神社と浅草神社の詳細については、つぎの記事を参照してください。

駒形橋にある 諏訪神社(すわ じんじゃ)も鎌倉幕府と深い縁があります。思わぬところで歴史的な繋がりを⾒つけるのも神社仏閣めぐりの楽しみの 1 つです。

諏訪神社の詳細については、つぎの記事を参照してください。

また、浅草寺と鶴岡八幡宮は他にも縁があります。例えば、浅草寺は、二天門(にてんもん)に 広目天(こうもくてん)と 持国天(じこくてん)の像を安置していました。これらの像は、鶴岡八幡宮にあったものです。

二天門の詳細については、つぎの記事を参照してください。

仏像

宝蔵門には、2 体の 仁王像 が安置されています。仁王(におう)は、金剛力士(こんごう りきし)とも呼ばれる、一対の仏教の守護神です。

門の左側にある像は 阿形(あぎょう)です。彼は口を開けて怒った表情をしています。門の右側にある像は 吽形(うんぎょう)の像です。彼は口を閉じて怒った表情をしています。どちらも筋骨たくましい神さまです。

浅草寺によると、宝蔵門の中には、つぎの仏像が安置されているとのことです。こちらも一般公開されていません。

  • 釈迦如来(しゃか にょらい)
  • 持国天(じこくてん)
  • 増長天(ぞうじょうてん)
  • 広目天(こうもくてん)
  • 多聞天(たもんてん)
  • 風神
  • 雷神

大提灯

浅草寺(東京・台東区)
浅草寺(東京・台東区)

宝蔵門の見どころの 1 つは、「小舟町(こぶなちょう)」と書かれた大提灯(だいちょうちん)です。この「小舟町」は日本橋 小舟町のことです。

宝蔵門の大提灯は、日本橋 小舟町にあった魚市場の信者たちが 1659 年(万治 2 年)に奉納したのが始まりです。この大提灯は、当時の日本橋 小舟町の繁栄とそこで働く人たちの心意気を示しています。

浅草寺によると、宝蔵門の大提灯は過去に 4 回かけ換えられています。直近のかけ換えは、2014 年(平成 26 年)とのことです。

大わらじ

浅草寺(東京・台東区)
浅草寺(東京・台東区)

宝蔵門の裏には 大わらじ が奉納されています。このわらじは仁王が履くためのものです。「このような大きなわらじを履くものが浅草寺を守っている」という魔除けの意味があります。

最初に奉納したのは、山形県 村山市(むらやまし)出身の政治家である、松岡俊三(まつおか としぞう)です。1941 年(昭和 16 年)のことです。以来、約 10 年ごとに新しい大わらじが宝蔵門に奉納されています。

松岡俊三が浅草寺に大わらじを奉納した理由は、大きく 3 つあります。

  • 彼が浅草寺を信奉していたこと。
  • 彼が取り組んでいた雪害救済のための法案が成立したことを記念するため。
  • 日中戦争(にっちゅう せんそう)の勝利を祈願するため。

なお、日中戦争は、1937 年(昭和 12 年)から 1945 年(昭和 20 年)まで、日本と中国の間で行われた戦争のことです。

以降、山形県 村山市は代々の大わらじを浅草寺に奉納しています。役目を終えた大わらじは村山市に返され、お焚き上げされるとのことです。

大わらじの詳細については、村山市の公式サイトの記事を参照してください。

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