東京下町ガイド の「寺院」カテゴリーでは、東京の下町エリアにあるいろいろな神社や寺院をわかりやすく紹介しています。あなたの東京観光におすすめのスポットを毎回 1 つ取り上げます。
今回の記事では、荒川区の南千住(みなみ せんじゅ)にある 浄閑寺(じょうかんじ)を紹介します。
浄閑寺は 浄土宗(じょうどしゅう)の寺院です。浄土宗は、阿弥陀如来(あみだ にょらい)を信じて念仏を唱えることが信仰の中心です。そうすることで誰でも極楽浄土に行けると説いています。
浄閑寺は、投込寺(なげこみでら)とも呼ばれています。これは、かつて近くに存在した 吉原遊郭(よしわら ゆうかく)で亡くなった遊女たちが、投げ捨てられるようにこの寺院に葬られたことに由来します。
また、浄閑寺には吉原遊廓に関連する史跡が数多く残っています。例えば、遊女を供養するための 新吉原総霊塔(しんよしわら そうれいとう)や明治時代の 花魁(おいらん)の墓などです。
今回の記事では、浄閑寺に関する以下の内容をやさしく解説します。
- 歴史
- 祀られている神さま
- 見どころ
- アクセス方法
- その他
この記事を読むことで、浄閑寺についてより深く理解できます。浄閑寺を訪れる際は、ぜひこの記事を参考にしてください。
由緒(歴史)
浄閑寺によると、この寺院の始まりは 17 世紀にまでさかのぼります。また、その歴史は、かつてこの寺院の近所にあった 吉原遊廓(よしわら ゆうかく)のそれと密接な関係があります。
浄閑寺の創建
浄閑寺の創建年は、1629 年(寛永 6 年)とする説と 1655 年(明暦元年)とする説があります。
いずれの説でも、浄土宗の僧侶である 順波(じゅんは)という人物が浄閑寺を建てたといわれています。彼がこの地に浄閑寺を建てた経緯は不明です。
吉原遊廓の誕生と移転
浄閑寺の歴史は、吉原遊廓(よしわら ゆうかく)と密接な関係があります。吉原遊郭は、かつて日本橋と日本堤に存在した、日本最大の遊郭です。
1617 年(元和 3 年)、徳川幕府は 日本橋 葺屋町(にほんばし ふきやちょう)に遊廓の設置を許可しました。市中にある遊女屋を 1 か所に集め、その周囲を堀で囲って吉原(よしわら)と名付けました。これが吉原遊廓の始まりです。
徳川幕府が吉原遊郭を許可した理由は、主に 2 つあります。
- 遊女屋を 1 か所に集めることで、江戸の街の風紀と治安を守ることができる。
- 名主に遊廓を管理させることで、税金を効率的に徴収することができる。
1656 年(明暦 2 年)、徳川幕府は、吉原遊廓に移転を命じました。徳川幕府が吉原遊廓を移転した理由は、次のとおりです。
- 江戸の街が発展するに従い、吉原遊郭があった日本橋が次第に江戸の市中になった。
- 1657 年(明暦 3 年)の 明暦の大火(めいれき の たいか)で江戸の街の大半が焼失した。
1657 年(明暦 3 年)、吉原遊廓は、日本橋から浅草の近くの 日本堤(にほんづつみ)に移転しました。日本堤は、浄閑寺から徒歩 10 分ほどの地域です。
日本橋にあった吉原遊郭を 元吉原(もとよしわら)、そして、日本堤の吉原遊郭を 新吉原(しんよしわら)と呼びます。
投込寺の誕生
安政年間(1850 年代)、日本各地で大地震が続けて発生しました。この一連の地震を 安政の大地震(あんせい の おおじしん)といいます。
安政の大地震の 1 つに 1855 年(安政 2 年)に発生した 安政江戸地震(あんせい えど じしん)があります。この地震は、江戸とその周辺の地域は大きな被害を与えました。その結果、7,000 人以上もの人がなくなりました。
安政江戸地震により、江戸の各地で大火災が起こりました。新吉原も延焼した地区の 1 つです。そして、新吉原で働く数多くの遊女が亡くなりました。
安政江戸地震で亡くなった新吉原の遊女たちは、投げ捨てられるように新吉原の近所の浄閑寺に葬られました。このため、浄閑寺は 投込寺(なげこみでら)と呼ばれるようになりました。
備考
浅草エリアには、新吉原の投込寺がいくつかありました。例えば、橋場の 正憶院(しょうおくいん)や竜泉の 大音寺(だいおんじ)などです。
浄閑寺、正憶院、そして大音寺は、いずれも浄土宗の寺院です。そして、浄土宗の寺院は 阿弥陀如来(あみだ にょらい)を本尊(ほんぞん)とします。
阿弥陀如来のご利益の 1 つが「極楽往生(ごくらく おうじょう)」です。このご利益の意味は「死後、極楽浄土に生まれ変わることができる」です。
遊女の遺体を浄土宗の寺院に預けることで、その遊女が極楽浄土に生まれ変わることを期待したと考えられます。
なお、正憶院は、1929 年(昭和 4 年)に足立区の 善応寺(ぜんのうじ)と合併しています。
仏さまとご利益
阿弥陀如来
浄閑寺の本尊(ほんぞん)は、阿弥陀如来(あみだ にょらい)です。本尊とは、その寺院でもっとも中心となる仏さまのことです。
阿弥陀如来は、死後の幸福と現世の安心をもたらす仏さまです。この仏さまの主なご利益は、次のとおりです。
- 極楽往生(ごくらく おうじょう):死後、極楽浄土に生まれ変わることができる
- 現世安穏(げんせ あんおん):現世において、何事もなく穏やかに過ごすことができる
- その他
見どころ
新吉原総霊塔
新吉原総霊塔(しんよしわら そうれいとう)は、新吉原の遊女のための供養塔です。この供養塔は、1793 年(寛政 5 年)に建てられた供養塚がもとになっています。
新吉原総霊塔は、その供養塚を 1929 年(昭和 4 年)に立て直したものです。
新吉原総霊塔は、もともと 1855 年(安政 2 年)の安政江戸地震で亡くなった新吉原の遊女を供養していました。この災害では 500 人以上の遊女が亡くなりました。
現在、この供養塔は、新吉原の創業から廃業までの 380 年間に浄閑寺に葬られた遊郭の関係者を供養しています。それ以外にも、この供養塔は、安政江戸地震や関東大震災で亡くなった人を供養しています。
浄閑寺によると、新吉原総霊塔は 25,000 人以上の人たちを供養しているとのことです。
花又花酔の川柳
花又花酔(はなまた かすい)は、明治時代から昭和時代にかけて活躍した川柳作家です。新吉原 総霊塔の壁には、花又花酔の川柳が刻まれています。
花又花酔の川柳「生まれては苦界、死しては浄閑寺」は、新吉原の遊女の悲哀を表わしています。彼女たちはとてもつらい人生を送りました。死後も無縁仏として扱われたのです。
若紫の墓
若紫(わかむらさき)は、明治時代の 花魁(おいらん)です。花魁とは、吉原遊郭で最も格の高い遊女のことを指します。
浄閑寺の中門をくぐったところには、若紫の墓があります。若紫の墓が建てられるきっかけとして、とても悲しい話が伝えられています。
若紫は、とても美しく、教養が高く、性格も優しい女性でした。そのため、源氏物語の紫の上 ( むらさきのうえ )にちなんで若紫の名前が付けられました。
また、若紫が働いていた 角海老楼(かどえびろう)は、当時の新吉原で随一の格式が高い店の 1 つでした。ウィキペディアによると、歴代の総理大臣がこの店に遊びに来ていたとのことです。
若紫はとても人気があったため、一般の遊女よりも短い期間で吉原遊郭を去ることになりました。その後は、かねてから交際していた恋人と結婚する予定でした。
若紫が吉原遊郭を去る 5 日前、1 人の男が吉原遊郭にやってきました。彼はある遊女が好きになり、その遊女と無理心中を図ろうと思っていたのです。しかし、彼はその遊女が他の客を取っていたのです。
自棄になった男が角海老楼に目をやると、若紫が見世の中を歩いていました。男は若紫に近づくと、彼女の首を小刀で切りつけました。それが原因で若紫は 22 才で亡くなりました。
若紫を哀れに思った人たちは、浄閑寺に彼女の墓を建てました。1903 年(明治 36 年)のことです。
参考までに、角海老楼のあった場所は、千束 4 丁目の仲ノ町通り(なかのちょう どおり)と京町通り(きょうまち どおり)の交差点の近くです。
また、千束 3 丁目にある 吉原弁財天(よしわら べんざいてん)には、角海老楼の関係者が奉納した複数の供養碑などが残っています。
小夜衣 供養 地蔵尊
小夜衣供養地蔵尊(さよぎぬ くよう じぞうそん)は、浄閑寺の入口にある地蔵尊です。これは、新吉原の遊女であった 小夜衣(さよぎぬ)を供養するためのものです。
小夜衣にまつわる悲しい話があります。
その昔、新吉原の京町一丁目には、四つ目屋善蔵(よつめや ぜんぞう)という老舗の料亭がありました。この店は、遊女たちが客を接待する場所としても利用されていました。そして、小夜衣は四つ目屋善蔵のお抱え遊女の一人でした。
ある日、四つ目屋善蔵は不注意で火事を起こしました。意地悪な女主人は、その原因を小夜衣が放火したからだと主張しました。その結果、小夜衣は無実の罪を着せられて火あぶりとなりました。
小夜衣の一周忌、三周忌、七周忌の度に新吉原では火事が起こりました。その度に四つ目屋は全焼し、ついには潰れてしまいました。
新吉原の人びとは「これは小夜衣の怨霊に違いない」と考えました。、そして、小夜衣の霊を鎮めるために法要を行いました。それ以降、小夜衣の年忌ごとの火事はなくなったとのことです。
なお、小夜衣供養地蔵尊には「悪い部分をなでると良くなる」という言い伝えがあります。
ひまわり地蔵
ひまわり地蔵 は、新吉原総霊塔の正面に祀られた地蔵菩薩です。その名のとおり、この地蔵菩薩はひまわりを手にしています。
浄閑寺の近所には、新吉原だけでなく、山谷(さんや)と呼ばれる地域がありました。山谷は貧しい日雇い労働者が集まっていました。
山谷で暮らす人たちの中には、ひとり寂しく人生を終える人も多くいました。そんな人たちの死後の安らぎのために建てられたのが、浄閑寺のひまわり地蔵です。
浄閑寺によると、ひまわり地蔵が手に持つひまわりの花は、太陽の下で一生を働きぬいた日雇労働者のシンボルとのことです。
永井荷風の筆塚
永井荷風(ながい かふう)は、明治時代から昭和時代にかけて活躍した小説家です。彼は、墨田区や台東区を舞台にした小説をいくつも発表しています。
ひまわり地蔵の隣には、永井荷風の 筆塚(ふでづか)があります。
永井荷風は浄閑寺を好んで訪れていました。ウィキペディアによると、彼は自分も浄閑寺に葬られたいと希望していたとのことです。しかし、彼のその願いは叶えられませんでした。
永井荷風の死後、彼の友人と浄閑寺は、彼を偲ぶための筆塚を建てました。1963 年(昭和 38 年)のことです。なお、この筆塚には、永井荷風の歯が 2 枚と愛用の小筆が 1 本納められています。
浄閑寺は、毎年 4 月 30 日に 荷風忌(かふうき)を行っています。これは、永井荷風の命日に行われる法要と記念講演です。
永井荷風の筆塚の側面の壁には歌碑があります。この歌碑には、永井荷風の詩集「偏奇館吟草(へんきかん ぎんそう)」の「震災」の詩が刻まれています。
山谷堀の跡地
山谷堀(さんやぼり)とは、三ノ輪から隅田川に続いていた水路です。江戸時代、人びとは船で隅田川から山谷堀を通って新吉原に行き来していました。
浄閑寺の前には公衆トイレがあります。その公衆トイレの前の道路は、かつて山谷堀が存在していた場所です。
この道路からは、東京スカイツリーを正面に見ることができます。東京スカイツリーと下町の建物が組み合わさった風景を撮影することができるため、おすすめの撮影スポットです。
各種情報
寺務所の受付時間
- 夏時間(3 月から 11 月までの期間):午前 9 時から午後 5 時まで
- 冬時間(12 月から 2 月までの期間):午前 9 時から午後 4 時 30 分まで
電話番号
- 03-3801-6870
住所
- 〒116-0003 東京都 荒川区 南千住 2−1−12
地図
アクセス(電車)
- 日比谷線の 三ノ輪駅(3 番出口)から徒歩 2 分
- 都電荒川線(東京さくらトラム)の 三ノ輪橋 停留場 から徒歩 5 分
アクセス(めぐりんバス)
- 北めぐりん(浅草まわり)の 三ノ輪駅 停留所(停留所の番号:14 番)から徒歩 2 分
- 北めぐりん(根岸まわり)の 三ノ輪駅 停留所(停留所の番号:5 番)から徒歩 2 分
- ぐるーりめぐりんの 三ノ輪駅 停留所(停留所の番号:6 番)から徒歩 2 分
めぐりんバスは台東区のコミュニティ バスです。台東区を観光する場合、めぐりんバスはとても便利です。めぐりんバスの詳細については、つぎの記事を参照してください。
北めぐりん(浅草まわり)、北めぐりん(根岸まわり)、そして、ぐるーりめぐりんの停留所(乗り場)の詳細については、つぎの記事を参照してください。
アクセス(都営バス)
- 都営バス(草 43)の 三ノ輪駅前 停留所 から徒歩 5 分
- 都営バス(草 63)の 三ノ輪駅前 停留所 から徒歩 5 分
- 都営バス(草 63)の 大関横丁 停留所 から徒歩 5 分
- 都営バス(草 64)の 三ノ輪二丁目 停留所 から徒歩 5 分
- 都営バス(草 64)の 大関横丁 停留所 から徒歩 5 分
- 都営バス(里 22)の 三ノ輪二丁目 停留所 から徒歩 5 分
- 都営バス(里 22)の 大関横丁 停留所 から徒歩 5 分
公衆トイレの有無
- 未確認(浄閑寺の前に三ノ輪二丁目 公衆トイレがあります)
関連する記事
参考
- 浄閑寺の公式サイトの記事「銘板碑の追刻銘について」
- 新纂浄土宗大辞典の記事「浄閑寺」