東京下町ガイド の「下町めぐり」カテゴリでは、東京の下町エリアのおすすめ観光コースを取り上げています。毎回テーマを1 つ選び、ガイドなしでも気軽に楽しめるモデル コースを紹介します。
今回のテーマは「新吉原(しんよしわら)」です。
新吉原は、1957 年まで浅草の近くに存在した、日本最大の遊郭(ゆうかく)です。新吉原は 吉原遊廓 (よしわら ゆうかく)や単に 吉原(よしわら)と呼ぶ場合もあります。
新吉原は単なる花街ではなく、上流階級や文化人の社交の場でもありました。そのため、当時の文化の最先端の場所でした。
マンガ「鬼滅の刃」の遊郭編の舞台となったのが新吉原です。そのため、新吉原の名前をすでにご存じの方も多いかもしれません。
今回、私たちが歩く時間の目安は 1 時間ほどです。途中、風俗店が軒を連ねている地域を通ります。そのため、今回の東京下町めぐりはお昼の時間帯がおすすめです。
この記事では、新吉原ゆかりの地を数多く取り上げています。あなたが東京下町めぐりや浅草観光をする際の参考にしてください。
ツアーの概要
今回の東京下町めぐりでは、新吉原(しんよしわら)ゆかりの地を数多く訪れます。
新吉原は、1957 年まで浅草の近くに存在した、日本最大の遊郭(ゆうかく)です。新吉原は 吉原遊廓 (よしわら ゆうかう)や単に 吉原(よしわら)と呼ぶ場合もあります。
今回のツアーの途中、つぎの場所を訪れます。
- 投込寺(なげこみでら)
- 大正時代の三大楼の跡地
- 吉原神社(よしわら じんじゃ)
- 吉原弁財天(よしわら べんざいてん)
- その他
あなたの時間に余裕がある場合、つぎの場所に立ち寄るのもいいかもしれません。いずれも吉原神社から歩いて数分の場所にあります。
- 鷲神社(おおとり じんじゃ)
- 長國寺(ちょうこくじ)
鷲神社と長國寺の詳細については、次の記事を参照してください。
こんな人におすすめ
あなたが以下のいずれかに該当する場合、今回の東京下町めぐりはおすすめです。
- 通常のツアーよりもディープなものを体験したい
- 歴史的な場所を訪問したい
- 鬼滅の刃の聖地巡礼をしたい
- その他
時間の目安
- 時間の目安:約 1 時間
集合場所と解散場所
- 集合場所:日比谷線の三ノ輪駅(3 番出口)
- 解散場所:日比谷線の三ノ輪駅(3 番出口)
訪問場所の一覧
- 日比谷線の三ノ輪駅
- 浄閑寺(投込寺)
- 山谷堀の跡地
- 日本堤の跡地
- 見返り柳
- 衣紋坂
- 五十間坂
- 吉原大門の跡地
- お歯黒どぶの跡地 #1
- カストリ書房
- 大文字楼の跡地
- 仲之町通り
- 稲本楼の跡地
- 角海老楼の跡地
- 水道尻
- お歯黒どぶの跡地 #2
- 吉原神社
- 吉原弁財天
- 甘味処の三島屋
- 台東病院
- 日比谷線の三ノ輪駅
公衆トイレの場所
- 日比谷線の三ノ輪駅
- 吉原公園
- 仲之町通りのファミリーマート
- 台東病院
- 花園公園
- 三島屋
ツアーの詳細
基礎知識
正直なところ、新吉原のゆかりの地は、浅草寺などのような派手さや華やかさはありません。今回のツアーを満喫するためには、新吉原について少し知っておくことをおすすめします。
新吉原の歴史
新吉原の歴史は 17 世紀までさかのぼります。
1617 年(元和 3 年)、徳川幕府は 日本橋 葺屋町(にほんばし ふきやちょう)に 遊廓(ゆうかく)を許可しました。これが後の吉原遊廓です。なお、遊廓とは歓楽街を壁や堀で囲んだものです。
徳川幕府が吉原遊郭を許可した理由は、主に 2 つあります。
- 遊女屋を 1 か所に集めることで、江戸の街の風紀と治安を守ることができる。
- 名主に遊廓を管理させることで、税金を効率的に徴収することができる。
1656 年(明暦 2 年)、徳川幕府は、吉原遊廓に移転を命じました。1657 年(明暦 3 年)、吉原遊廓は、日本橋から浅草の近くの 日本堤(にほんづつみ)に移転しました。
徳川幕府が吉原遊廓を移転した理由は、つぎのとおりです。
- 江戸の街が発展するに従い、吉原遊郭があった日本橋が次第に江戸の市中になった。
- 1657 年(明暦 3 年)の明暦の大火(めいれき の たいか)で江戸の街の大半が焼失した。
日本橋にあった吉原遊郭を 元吉原(もとよしわら)、そして、日本堤の吉原遊郭を 新吉原(しんよしわら)と呼びます。
非公認のものを含めると、日本には数多くの遊廓が存在しました。その中でも新吉原は最大の規模を誇りました。多いときには 8,000 人以上の人びとが新吉原で働いていたといわれています。
新吉原は単なる花街ではなく、上流階級や文化人の社交の場でもありました。そのため、当時の文化の最先端の場所でした。
新吉原の遊女の多くは、教養が高く、気位が高い人たちでした。そのため、客たちも高い教養とマナーが要求されました。
1957 年(昭和 32 年)、売春防止法が施行されました。これに伴い、吉原遊廓は 340 年の歴史に幕を下ろしました。
新吉原の概要
新吉原があった場所は、現在の台東区 千束 3 丁目と 4 丁目あたりです。新吉原の敷地は、横が約 246 m(135 間)、奥行きが約 330 m(180 間)の長方形でした。
新吉原の周囲には、お歯黒どぶと呼ばれる堀がありました。新吉原ができたとき、お歯黒どぶの幅は約 9 m(5 間)ありました。
吉原大門(よしわら おおもん)は、平常時、新吉原に入るための唯一の入口でした。門といっても、扉があったわけではないようです。「鬼滅の刃」でも吉原大門はアーチ型の入口になっています。
新吉原の一番奥は 水道尻(すいどうじり)と呼ばれていました。水道尻の先には新吉原の裏門がありました。災害時や酉の市(とり の いち)などの特別の場合を除き、この裏門は閉まっていました。
新吉原の敷地内の四隅と吉原大門の前には、合計 5 つの稲荷神社がありました。これらの神社は陰陽道(おんみょうどう)に基づき建てられたものです。新吉原を守護する目的がありました。
新吉原の前には 山谷堀(さんやぼり)がありました。山谷堀とは、三ノ輪から隅田川に続いていた水路です。江戸時代、舟で隅田川から山谷堀を通って新吉原に行くことが粋(いき)とされました。
ルートの解説
日比谷線の三ノ輪駅(3 番出口)
今回の集合地点は、日比谷線の 三ノ輪駅(みのわえき)の 3 番出口です。この出口に出るためには、三ノ輪駅のホームの北千住寄りの階段を使います。
地上階に出ると、明治通りと昭和通りの大きな交差点が右手に見えます。この交差点に向かって歩きます。交差点に着いたら右に曲がります。牛めしの松屋のオレンジ色の看板が目印です。
松屋を通り過ぎたら、最初の路地を右に曲がります。数十メートル先に 浄閑寺(じょうかんじ)があります。
浄閑寺
浄閑寺(じょうかんじ)は、1655 年(明暦元年)に建てられた 浄土宗(じょうどしゅう)の寺院です。この寺院は新吉原から歩いて 10 分から 15 分くらいの場所にあります。
浄閑寺は 投込寺(なげこみでら)とも呼ばれます。吉原遊廓で遊女が亡くなった際、彼女たちはこの寺院に投げ込まれるように葬られました。
浅草地区には、新吉原の投込寺がいくつかありました。例えば、橋場の 正憶院(しょうおくいん)や竜泉の 大音寺(だいおんじ)などです。その中でも浄閑寺が一番有名です。
新吉原の投込寺として、浄閑寺には新吉原の史跡が数多くあります。それらを 1 つひとつ見て回るのも良いかもしれません。
浄閑寺の詳細については、次の記事を参照してください。
新吉原総霊塔
新吉原総霊塔(しんよしわら そうれいとう)は、新吉原の遊女のための供養塔です。この供養塔は、1793 年(寛政 5 年)に建てられた供養塚がもとになっています。
新吉原総霊塔は、もともと 1855 年(安政 2 年)の安政江戸地震で亡くなった新吉原の遊女を供養していました。この災害では 500 人以上の遊女が亡くなりました。
現在、この供養塔は、新吉原の創業から廃業までの 380 年間に浄閑寺に葬られた遊郭の関係者を供養しています。浄閑寺によると、その数は 25,000 人以上とのことです。
花又花酔の川柳
花又花酔(はなまた かすい)は、明治時代から昭和時代にかけて活躍した川柳作家です。新吉原 総霊塔の壁には、花又花酔の川柳が刻まれています。
花又花酔の川柳「生まれては苦界、死しては浄閑寺」は、当時の新吉原の遊女たちの悲哀を的確に表わしています。
若紫の墓
若紫(わかむらさき)は、明治時代の 花魁(おいらん)です。花魁とは、吉原遊郭で最も格の高い遊女のことを指します。
浄閑寺の中門をくぐったところには、若紫の墓があります。若紫の墓が建てられるきっかけとして、とても悲しい話が伝えられています。
若紫は、とても美しく、教養が高く、性格も優しい女性でした。そのため、源氏物語の紫の上 ( むらさき の うえ )にちなんで若紫の名前が付けられました。
また、若紫が働いていた 角海老楼(かどえびろう)は、当時の新吉原で随一の格式が高い店の 1 つでした。ウィキペディアによると、歴代の総理大臣がこの店に遊びに来ていたとのことです。
若紫はとても人気があったため、一般の遊女よりも短い期間で吉原遊郭を去ることになりました。その後は、かねてから交際していた恋人と結婚する予定でした。
若紫が吉原遊郭を去る 5 日前、1 人の男が吉原遊郭にやってきました。彼はある遊女が好きになり、その遊女と無理心中を図ろうと思っていたのです。しかし、彼はその遊女が他の客を取っていたのです。
自棄になった男が角海老楼に目をやると、若紫が見世の中を歩いていました。男は若紫に近づくと、彼女の首を小刀で切りつけました。それが原因で若紫は 22 才で亡くなりました。
若紫を哀れに思った人たちは、浄閑寺に彼女の墓を建てました。1903 年(明治 36 年)のことです。
小夜衣供養地蔵尊
小夜衣供養地蔵尊(さよぎぬ くよう じぞうそん)は、浄閑寺の入口にある地蔵尊です。これは、新吉原の遊女であった 小夜衣(さよぎぬ)を供養するためのものです。
小夜衣にまつわる悲しい話があります。
その昔、新吉原の京町一丁目には、四つ目屋善蔵(よつめや ぜんぞう)という老舗の料亭がありました。この店は、遊女たちが客を接待する場所としても利用されていました。そして、小夜衣は四つ目屋善蔵のお抱え遊女の一人でした。
ある日、四つ目屋善蔵は不注意で火事を起こしました。意地悪な女主人は、その原因を小夜衣が放火したからだと主張しました。その結果、小夜衣は無実の罪を着せられて火あぶりとなりました。
小夜衣の一周忌、三周忌、七周忌の度に新吉原では火事が起こりました。その度に四つ目屋は全焼し、ついには潰れてしまいました。
新吉原の人びとは「これは小夜衣の怨霊に違いない」と考えました。そして、小夜衣の霊を鎮めるために法要を行いました。それ以降、小夜衣の年忌ごとの火事はなくなったとのことです。
なお、小夜衣供養地蔵尊には「悪い部分をなでると良くなる」という言い伝えがあります。
山谷堀の跡地
山谷堀(さんやぼり)とは、三ノ輪から隅田川に続いていた水路です。江戸時代、人びとは船で隅田川から山谷堀を通って新吉原に行き来していました。
浄閑寺の前には公衆トイレがあります。その公衆トイレの前の道路は、かつて山谷堀が存在していた場所です。
この道路からは、東京スカイツリーを正面に見ることができます。東京スカイツリーと下町の建物が組み合わさった風景を撮影することができるため、おすすめの撮影スポットです。
日本堤の跡地
浄閑寺で参拝を済ませたら、三ノ輪駅(3 番出口)に戻ります。
三ノ輪駅のこの出口の前にあるのが 明治通り です。明治通りを東京スカイツリーに向かって歩いていくと、途中で 土手通り に分かれます。今回は土手通りを進みます。
山谷堀の南側に 日本堤(にほんづつみ)と呼ばれる土手がありました。この土手は、三ノ輪駅周辺から隅田川まで延びていました。現在の明治通りと土手通りに相当します。
あしたのジョー像
土手通りをさらに進むと、左手にボクシング マンガ「あしたのジョー」の主人公である 矢吹丈(やぶき じょう)の像が建っています。この漫画はこの地域が舞台となっています。
土手通りの左側は、かつて 山谷(さんや)と呼ばれた地域です。矢吹丈が通っていた丹下ジムは、この地域の一角にあったことになっています。
一葉記念館の案内板
土手通りを東京スカイツリーの方角にさらに進むと、一葉記念館(いちよう きねんかん)の案内板があります。
一葉記念館は、明治時代の女流作家の 樋口一葉(ひぐち いちよう)の資料館です。彼女はこの近所に住んでいました。そのため、「たけくらべ」など、彼女はこの地域を舞台にした小説を発表しました。
吉原大門 交差点
三ノ輪駅から明治通りと土手通りを 10 分ほど歩くと 吉原大門 交差点(よしわら おおもん こうさてん)に着きます。 この交差点の目印は台東病院の案内板とガソリン スタンドです。
この交差点を右に曲がると新吉原はすぐそこです。
見返り柳
吉原大門 交差点のガソリン スタンドの前には、見返り柳(みかえり やなぎ)とその記念碑があります。
新吉原で楽しい時間を過ごした男性客たちは、この柳の木のあたりで振り返って名残りを惜しみました。そのため、昔の人たちはこの柳の木を「見返り柳」と呼びました。
説明板によると、見返り柳は日本堤(土手)にあったとのことです。日本堤は整地されたため、見返り柳は現在の場所に移されました。
電柱と電線があるため、見返り柳は枝が切り整えられています。そのため、大きな柳の木を期待して行くと少しがっかりするかもしれません。
衣紋坂
日本堤の土手から新吉原にかけて 衣紋坂(えもんざか)と呼ばれる坂道がありました。衣紋とは、身だしなみを整えるという意味です。
新吉原を訪れる際、男性客たちはこの道を歩きながら身だしなみを整えました。そうすることで、彼らは少しでも新吉原の遊女の心象を良くしようとしたのでしょう。
五十間道
五十間道(ごじっけんみち)は、衣紋坂と新吉原の入り口をつなぐ道です。五十間は長さのことで、約 90 メートルです。衣紋坂から新吉原までの距離が五十間だったことに由来します。
五十間道は S 字カーブになっています。その理由は、吉原遊廓の中が見えないようにするためとのことです。
五十間道の途中には、玄徳稲荷神社(よしとく いなり じんじゃ)がありました。その昔、5 つの稲荷神社が新吉原を守護していました。玄徳稲荷神社はその 1 つです。
吉原大門の跡地
吉原大門(よしわら おおもん)は、平常時に新吉原に入るための唯一の入口でした。
門といっても、扉があったわけではありません。そのため、「鬼滅の刃」でも吉原大門はアーチ型の入口になっています。
お歯黒どぶの跡地
吉原大門の跡地の近くには交番があります。その交番の横にある道は、かつて お歯黒どぶ と呼ばれる堀がありました。
お歯黒どぶは、新吉原を囲んでいた堀のことです。新吉原ができたとき、お歯黒どぶの幅は約 9 m(5 間)ありました。
お歯黒どぶの石垣の跡地
お歯黒どぶは 19 世紀の初めには埋め立てられました。この堀に関する史跡はほとんど残っていません。
交番のすぐ裏にマンションがあります。そのマンションの横には、お歯黒どぶの石垣の擬定地(ぎていち)があります。この石を積み上げたものは、お歯黒どぶの石垣の跡と推定されています。
大文字楼の跡地
吉原公園 (よしわら こうえん)、カストリ書房から少し歩いたところにある公園です。この公園は、大文字楼(だいもんじ ろう)の跡地に作られました。
大文字楼は、角海老楼と稲本楼と並び、19 世紀後半の新吉原の 三大妓楼(さんだい ぎろう)と称されました。妓楼(ぎろう)とは、遊女が働く店のことです。三大妓楼は格の高さで有名でした。
吉原公園は道路から一段高いところにあります。お歯黒どぶから見ると遊廓はこの高さにあったのかもしれません。
榎本稲荷神社の跡地
吉原公園の西端の砂場には、かつて 榎本稲荷神社(えのもと いなり じんじゃ)がありました。その昔、5 つの稲荷神社が新吉原を守護していました。榎本稲荷神社はその 1 つです。
仲之町通り
吉原大門の跡地から先は 仲之町通り(なかのちょう どおり)です。吉原公園から吉原大門に戻ったら、そのまま仲之町通りを進みます。
仲之町通りは新吉原の中央通りでした。現在は、道路の両側に風俗店が軒を連ねています。人によっては、この道路を歩くのが居心地が悪いかもしれません。
意外なことに仲之町通りは通学路でもあります。ランドセルを背負った小学生が歩いているのを見かけると、複雑な気持ちになります。
稲本楼の跡地
仲之町通りをさらに進むと、千束四丁目 交差点 があります。この交差点を 角町通り(かどちょう どおり)の方向に曲がるとホテル稲本があります。
新吉原の時代、ホテル稲本の辺りには 稲本楼(いなもと ろう)がありました。稲本楼も 19 世紀後半の新吉原の三大妓楼の 1 つです。
角海老楼の跡地
仲之町通りをさらに進むと 千束保健センター交差点 があります。仲之町通りは、この交差点で 京町通り(きょうまち どおり)と交わります。
現在、千束保健センター交差点の角にはマンションが建っています。このマンションの敷地には、かつて 角海老楼(かどえび ろう)がありました。
角海老楼も 19 世紀後半の新吉原の三大妓楼の 1 つです。また、浄閑寺に葬られている若紫が働いていたのも角海老楼です。
角海老楼には有名な時計塔がありました。この時計塔は、樋口一葉(ひぐち いちよう)の「たけくらべ」にも出てきます。
それ以外にも、小夜衣に濡れ衣を着せた四つ目屋善蔵もこの京町通り沿いにあったとされます。
水道尻
水道尻(すいどじり)とは、千束保健センター交差点から吉原神社の手前あたりまでを指します。この名前は、新吉原内の水道施設の末端があったことが由来です。
お歯黒どぶの跡地
千束保健センター交差点から吉原神社に向かう途中、仲之町通りは細い路地と交差します。
この路地は仲之町通りを中心に左右にまっすぐ延びています。恐らく、この路地に沿ってお歯黒どぶがあったと思われます。
仲之町通りのこの辺りには、新吉原の裏門がありました。平常時、この裏門は閉じられていたため、出入りすることはできませんでした。
この裏門の近くには、浅草酉の市(あさくさ とりのいち)で有名な 長國寺(ちょうこくじ)と 鷲神社(おおとり じんじゃ)があります。
新吉原の裏門は、毎年 11 月の酉の市の日に開放されました。そのため、「浅草酉の市」の帰りに遊郭で遊ぶ人たちが多かったとのことです。
また、裏門の手前には、秋葉常夜灯(あきは じょうやとう)がありました。秋葉常夜灯は、火伏せ(ひぶせ)の神さまである 秋葉権現(あきば ごんげん)を祀る大きな銅製の灯籠です。
吉原神社
仲之町通りをさらに進むと、右側に 吉原神社(よしわら じんじゃ)があります。
吉原神社は、かつて新吉原を守護していた 5 つの稲荷神社を合祀(ごうし)した神社です。合祀とは、複数の神さまを 1 か所で祀ることです。
吉原神社は、新吉原で働く多くの女性の信仰を集めました。現在でも女性の願いを叶えてくれる神社として有名です。
吉原神社の詳細については、次の記事を参照してください。
逢初桜
逢初桜(あいぞめざくら)とは、吉原神社の入口に植えられている桜の木のことです。逢初とは、「恋い焦がれる人との出会い」を意味します。
逢初桜は、もともと衣紋坂の入口の近くに植えられていました。江戸時代、男性客はこの桜の木にすてきな出会いを祈願してから遊郭に入っていたとのことです。
逢初桜の詳細については、次の記事を参照してください。
仲之町通り
吉原神社を過ぎたあたりで仲之町通りは S 字カーブになっています。衣紋坂と同様、裏門の外から吉原遊廓の中が直接見えないようにするためと思われます。
吉原弁財天
仲之町通りをさらに進むと、吉原弁財天(よしわら べんざいてん)があります。
吉原弁財天は、吉原神社の境外社(けいがいしゃ)です。吉原弁財天は吉原神社から離れた場所にありますが、吉原神社が管理しています。
この場所には、1959 年(昭和 34 年)まで 弁天池(べんてんいけ)や 花園池(はなぞのいけ)と呼ばれる池がありました。弁天は、金運や芸事の神さまである 弁財天(べんざいてん)のことです。
弁天池のほとりには弁財天の祠がありました。この弁財天は、新吉原の遊廓の関係者たちの信仰を集めていました。これが現在の吉原弁財天です。
吉原観音像
吉原観音像(よしわら かんのん ぞう)は、吉原弁財天の境内にある観音像です。吉原観音像は、1923 年(大正 12 年)の関東大震災の犠牲者を供養するためのものです。
1923 年(大正 12 年)、関東大震災がおきました。この地震により、東京の多くの地域で火災が発生しました。新吉原やその周辺の地域も大火災に見舞われました。
遊郭内に逃げ場を失った遊女たちは、火を避けるために花園池に飛び込みました。その結果、490 人もの女性が犠牲になったとのことです。
可能ならば、桜の季節に吉原弁財天を訪れてみてください。桜の花を背景に佇む吉原観音像は見ものです。
その他の史跡
吉原弁財天は、あちらこちらに新吉原の名残りをとどめています。
吉原弁財天の玉垣(たまがき)には、遊廓の関係者の名前が刻まれています。玉垣とは、神社の周囲を囲む垣根のことです。上の写真では、角海老楼の名前を確認できます。
それ以外にも、吉原弁財天の境内には、遊廓の関係者が奉納した石碑がいくつもあります。上の写真では、大文字楼と稲本楼の名前を確認できます。
吉原弁財天の境内には、新吉原に関する資料が展示されています。これらの資料もご一読をおすすめします。
甘味処の三島屋
吉原弁財天から仲之町通りをさらに進むと、甘味処の 三島屋(みしまや)があります。三島屋は昭和の雰囲気を漂わす店です。店の外観もそうですが、店内も昔ながらの作りになっています。
個人的に好きなメニューは、焼きそばと今川焼きです。焼きそばは、太めのもちもち食感の麺が気に入っています。今川焼きは冷めても皮が柔らかいのが特徴です。
店内でジュースやビールを飲む場合、自分で冷蔵庫から取り出すシステムです。このあたりも下町のおおらかさがにじみ出ています。
北めぐりん(根岸まわり)の台東病院 停留所
台東病院は、仲之町通り沿いにあります。具体的な場所は、吉原弁財天と吉原神社の中間あたりです。
台東病院の敷地内に めぐりんバス の停留所があります。めぐりんバスは台東区のコミュニティ バスです。めぐりんバスの乗車料金は 100 円です。
台東病院では、次のめぐりんバスに乗ることができます。
- 北めぐりん(根岸まわり)
- 北めぐりん(浅草まわり)
- 南めぐりん
北めぐりん(根岸まわり)は、台東病院を出発した後、三ノ輪駅、下谷、根岸、鶯谷駅、かっぱ橋道具街などを循環します。台東病院から三ノ輪駅に戻る場合は、北めぐりん(浅草まわり)が便利です。
北めぐりん(浅草まわり)は、台東病院を出発した後、浅草、隅田公園、橋場、三ノ輪駅、千束などを循環します。台東病院から浅草に向かう場合は、北めぐりん(浅草まわり)が便利です。
南めぐりん は、台東病院を出発した後、入谷、上野、浅草橋、蔵前、田原町などを循環します。台東病院から上野や浅草橋に向かう場合は、南めぐりんが便利です。
今回は、台東病院で 北めぐりん(根岸まわり)に乗ります。このバスに乗ると、仲之町通り、吉原大門交差点、そして土手通りを経由して三ノ輪駅まで戻ることができます。
北めぐりん(根岸まわり)は、今回の東京下町めぐりの復習に最適です。ぜひ、ご検討ください。
めぐりんバスの詳細については、次の記事を参照してください。
北めぐりん(根岸まわり)、北めぐりん(浅草まわり)、および、南めぐりんのルートと停留所(乗り場)の詳細については、次の記事を参照してください。
日比谷線の三ノ輪駅
三ノ輪駅 停留所(停留所の番号:5 番)で北めぐりん(根岸まわり)を下車します。これで今回の東京下町めぐりは終了です。お疲れさまでした。