この記事では、小野照崎神社(おの てるさき じんじゃ)を紹介します。
小野照崎神社は、東京の台東区にある神社です。この神社は、日比谷線の入谷駅から徒歩 3 分のところにあります。山手線の鶯谷駅からでも、徒歩 7 分です。
小野照崎神社の主祭神(中心となる神さま)は、学問と芸能の神さまである、小野篁(おの たかむら)です。この神さまのご神徳(ご利益)は、芸事上達、学業成就、仕事運向上、その他です。
小野照崎神社が建てられたのは、平安時代です。上野国司の仕事を終えた小野篁は京都に帰るときにこの地に滞在しました。小野篁の死後、地元の人たちは、彼を祀る神社を建てました。
俳優の渥美清さんは、無名時代に小野照崎神社にお参りしました。その後、彼は映画「男はつらいよ」の主役に選ばれたという逸話があります。
由緒(歴史)
小野照崎神社によると、この神社の始まりは 9 世紀にまでさかのぼります。
その昔、小野篁(おの の たかむら)という人がいました。彼は、上野国(こうずけの くに)の国司(こくし)でした。上野国は現在の群馬県、そして、国司は政府から派遣された役人のことです。
国司の任務を終えた小野篁が京都に戻るとき、彼は上野の照崎(てるさき)を通りました。この地域の景色を気に入ったため、小野篁はしばらくこの地に滞在しました。照先は、上野公園の東北の側の昔の地名です。
852 年(仁寿 2 年)、小野篁が亡くなりました。上野の人びとは、彼を偲んで上野の照崎に彼を祀る神社を建てました。これが小野照崎神社です。
小野照崎神社の別当寺(べっとうじ)は、天台宗の嶺照院(れいしょういん)でした。別当寺とは、神社を管理する寺院のことです。別当寺は、神仏習合(しんぶつ しゅうごう)の時代の制度です。
1625 年(寛永 2 年)、江戸幕府は、上野の忍岡(しのぶがおか)に寛永寺(かんえいじ)を建てました。忍岡は、現在の上野公園の一帯の昔の地名です。
江戸幕府が寛永寺を建てた理由は、江戸城の鬼門(きもん)を封じるためです。鬼門とは、東北の方角のことです。
昔の人は、鬼門から鬼が来て悪いことをすると信じていました。そのため、江戸城の鬼門に神社や寺院を建てれば鬼は江戸に入ってこられないと考えたのです。
これに伴い、小野照崎神社は、長左衛門稲荷(ちょうざえもん いなり)があった場所に移りました。長左衛門稲荷は、現在も小野照崎神社の境内にあります。
江戸時代の後期、小野照崎神社は、両国の回向院(えこういん)に祀られていた菅原道真(すがわら みちざね)を遷宮(せんぐう)しました。遷宮とは、神社や寺院で祀られている神さまや仏さまを他の場所に移すことです。
1782 年(天明 2 年)、小野照崎神社は、境内に富士塚(ふじづか)を建てました。富士塚は富士山を模した人工の山や塚です。小野照崎神社の富士塚は、下谷坂本富士(したや さかもと ふじ)と呼ばれています。
江戸時代から昭和時代にかけて、江戸の庶民を中心に富士講(ふじこう)が流行しました。富士講とは、富士山を神と見立てる民間信仰のことです。
富士講の活動の 1 つに富士山登山があります。しかし、富士山を訪れるたり、富士山に登ったりすることはとても大変です。そこで、人びとは、富士山を訪れる代わりに富士塚を参拝したのです。
1866 年(慶応 2 年)、現在の社殿が完成しました。
祀られている神さまとご神徳(ご利益)
小野篁(おの の たかむら)
小野照崎神社の主祭神は、小野篁(おの の たかむら)です。小野篁は平安時代の政治家です。彼は、武芸、学問、詩歌などにも秀でていたといわれています。
小野篁は、学問と芸能の神さまです。主なご神徳(ご利益)は、芸事上達、学業成就、仕事運向上、その他です。
この神さまの詳細については、つぎの記事を参照してください。
菅原道真(すがわら の みちざね)
菅原道真(すがわら の みちざね)も小野照崎神社の主祭神です。菅原道真は平安時代の政治家です。彼は、学問や詩歌などにも秀でていたといわれています。
菅原道真は、学問と至誠(しせい)の神さまです。主なご神徳(ご利益)は、学業成就、厄除け、病気平癒(びょうき へいゆ)、その他です。なお、至誠とは、「とても誠実である」という意味です。
この神さまの詳細については、つぎの記事を参照してください。
国常立命(くに の とこたち の みこと)
境内社の御嶽神社(みたけ じんじゃ)は、国常立命(くに の とこたち の みこと)を祀っています。この神さまは、国之常立神(くに の とこたち の かみ)とも呼びます。
国常立命は、天地開闢(てんち かいびゃく)のときに現れた最初の神さまです。天地開闢とは、天と地ができた時代のことです。
国常立命は、国土守護の神さまです。主なご神徳(ご利益)は、国土安穏(こくど あんのん)、五穀豊穣、商売繁盛、その他です。
この神さまの詳細については、つぎの記事を参照してください。
国狭槌命(くにさつち の みこと)
境内社の御嶽神社(みたけ じんじゃ)は、国狭槌命(くにさつち の みこと)を祀っています。この神さまは、国狭立尊(くに の さたち の みこと)とも呼びます。
国狭槌命は、天地開闢(てんち かいびゃく)のときに国常立命のつぎに現れた神さまです。天地開闢とは、天と地ができた時代のことです。
国狭槌命は、生命と土の神さまです。主なご神徳(ご利益)は、五穀豊穣、その他です。
この神さまの詳細については、つぎの記事を参照してください。
豊斟渟尊(とよくむぬ の みこと)
境内社の御嶽神社(みたけ じんじゃ)は、豊斟渟尊(とよくむぬ の みこと)を祀っています。この神さまは、豊雲野神(とよくもの の かみ)とも呼びます。
豊斟渟尊は、天地開闢(てんち かいびゃく)のときに国狭槌命のつぎに現れた神さまです。天地開闢とは、天と地ができた時代のことです。
豊斟渟尊は、雲に覆われた豊かな大地の神さまです。主なご神徳(ご利益)は、五穀豊穣、その他です。
この神さまの詳細については、つぎの記事を参照してください。
伊邪奈岐命(いざなぎ の みこと)
境内社の三峯神社(みつみね じんじゃ)は、伊邪奈岐命(いざなぎ の みこと)を祀っています。妻の伊邪奈美命(いざなみ の みこと)と共に日本列島を構成する島々や多くの神さまを生みました。
伊邪奈岐命は、神世七代(かみのよ ななよ)の第 7 世代の神さまです。神世七代とは、天と地ができた世界の始まりのときに現れた 7 世代の神さまのことです。
伊邪奈岐命は、国産みと神産みの神です。主なご神徳(ご利益)は、夫婦円満、子孫繁栄、長寿繁栄、縁結び、その他です。
この神さまの詳細については、つぎの記事を参照してください。
伊邪奈美命(いざなみ の みこと)
境内社の三峯神社(みつみね じんじゃ)は、伊邪奈美命(いざなみ の みこと)を祀っています。夫の伊邪奈岐命(いざなぎ の みこと)と共に日本列島を構成する島々や多くの神さまを生みました。
伊邪奈美命は、神世七代(かみのよ ななよ)の第 7 世代の神さまです。神世七代とは、天と地ができた世界の始まりのときに現れた 7 世代の神さまのことです。
伊邪奈美命は、国産みと神産みの神です。主なご神徳(ご利益)は、夫婦円満、子孫繁栄、長寿繁栄、縁結び、その他です。
この神さまの詳細については、つぎの記事を参照してください。
素盞雄命(すさのお の みこと)
境内社の琴平神社(ことひら じんじゃ)は、素盞雄命(すさのお の みこと)を祀っています。素盞雄命は、太陽神である天照大神(あまてらす おおみかみ)の弟です。
素盞雄命は、戦いと農業の神さまです。主なご神徳(ご利益)は、厄除け、家内安全、五穀豊穣、その他です。
この神さまの詳細については、つぎの記事を参照してください。
宇迦之魂命(うか の みたま の みこと)
境内社の稲荷神社(いなり じんじゃ)は、宇迦之魂命(うか の みたま の みこと)を祀っています。
宇迦之魂命は、稲をつかさどる神さまです。同じく稲をつかさどる神さまの稲荷神(いなりしん)と同一視されます。
宇迦之魂命は、穀物と農業の神さまです。この神さまの主なご神徳(ご利益)は、五穀豊穣、商売繁盛、家内安全、芸事上達、その他です。
この神さまの詳細については、つぎの記事を参照してください。
栲幡千千姫命(たくはたちぢひめ の みこと)
境内社の織姫神社(おりひめ じんじゃ)は、栲幡千千姫命(たくはたちぢひめ の みこと)を祀っています。
栲幡千千姫命は、織物の神さまです。この神さまの主なご神徳(ご利益)は、織物業守護、子授け、安産、その他です。
この神さまの詳細については、つぎの記事を参照してください。
猿田彦命(さるたひこ の みこと)
小野照崎神社の庚申塚は、猿田彦命(さるたひこ の みこと)を祀っています。
猿田彦命は、神話の時代に神さまの道案内をした神さまです。そのため、導き(みちひらき)の神さまとして、あらゆることを良い方向に導くといわれています。
猿田彦命は、導き(みちひらき)の神さまです。主なご神徳(ご利益)は、交通安全、商売繁盛、学業成就、その他です。
この神さまの詳細については、つぎの記事を参照してください。
見どころ
庚申塚(こうしんづか)
小野照崎神社の境内には、庚申塚(こうしんづか)があります。庚申塚とは、庚申信仰(こうしん しんこう)に基づいて建てられた塚のことです。
庚申信仰によると、私たちの体内には三尸(さんし)と呼ばれる 3 匹の虫が住んでいます。三尸は、私たちが生まれたときから体内にいるとのこと。
庚申(こうしん)の日の夜、私たちが眠っている間に三尸は私たちの体から抜け出します。そして、天帝(てんてい)に私たちが行った悪事を告げ口するのです。
天帝は、罪の重さに応じて私たちの寿命を削るのです。そのため、人びとは庚申の日に集まって眠らずに過ごす習慣ができました。これが庚申講です。
甲信の日は 60 日に 1 度めぐってきます。つまり、庚申講は 60 日に 1 度開かれます。庚申講を 3 年間 18 回続けた人が記念に建てたのが庚申塚です。
小野照崎神社の庚申塚には全部で 11 の石碑があります。その中で一番古いものは 1647 年(正保 2 年)に建てられました。
小野照崎神社の庚申塚は、大阪の四天王寺(してんのうじ)の庚申堂、京都の金剛寺(こんごうじ)の庚申堂と共に「日本三大庚申」と呼ばれています。
富士塚(ふじづか)
小野照崎神社の境内には、1782 年(天明 2 年)に建てられた富士塚(ふじづか)があります。富士塚は、富士山を模した人工の山や塚です。
江戸時代から昭和時代にかけて、江戸の庶民を中心に富士講(ふじこう)が流行しました。富士講とは、富士山を神と見立てる民間信仰のことです。
富士講の活動の 1 つに富士山登山があります。しかし、富士山を訪れるたり、富士山に登ったりすることはとても大変です。そこで、人びとは、富士山を訪れる代わりに富士塚を参拝したのです。
小野照崎神社の富士塚は、富士山の溶岩で作られています。また、一合目には役小角(えん の おづぬ)の像があります。そして、五合目には角行(かくぎょう)の像があります。
役行者は、修験道(しゅうけんどう)を作った人です。修験道とは、山にこもって厳しい修行を行うことで悟りを得ようとする山岳信仰です。
角行は、富士講(ふじこう)を作った人です。富士講とは、富士山信仰と修験道の教えを民衆向けに解釈したものです。
小野照崎神社の富士塚は、当時の富士山信仰のなごりを今の時代に伝えるものです。そのため、1979 年(昭和 54 年)、小野照崎神社の富士塚は国の 重要有形民俗文化財 に指定されました。
下町八福神(学問芸能)
小野照崎神社は、下町八福神(したまち はちふくじん)の 1 つです。下町八福神とは、東京の中央区と台東区にある 8 つの神社のことです。
下町八福神では、それぞれの神社ごとに異なるご神徳(ご利益)があります。小野照崎神社のご神徳は「学問芸能」です。
下町八福神すべてを参拝することを「下町八福神めぐり」や「下町八社福参り」といいます。下町八福神めぐりは、地域おこしの一環として 1981 年(昭和 56 年)に始まりました。
その名のとおり、下町八福神はすべて東京の下町にあります。8 つの神社をめぐることで、下町の名所旧跡を楽しんだり、下町情緒を味わったりできます。
下町八福神の詳細については、つぎの記事を参照してください。
江戸二十五天神(第十四番)
小野照崎神社は、江戸二十五天神(えど にじゅうご てんじん)の 1 つです。江戸二十五天神とは、都内で菅原道真を祀っている 25 の神社(天神や天満宮)のことです。
江戸二十五天神は、江戸時代後期から明治時代にかけて成立したといわれています。同様のものに東京天満宮二十五社(とうきょう てんまんぐう にじゅうごしゃ)があります。
江戸二十五天神では、それぞれの神社に番号が付けられています。この番号は、巡拝の順番です。小野照崎神社の番号は 14 番です。
当サイトで取り上げている、他の江戸二十五天神には石浜神社があります。石浜神社の詳細については、つぎの記事をさんしょうしてください。
各種情報
社務所の受付時間
- 午前 9 時から午後 4 時まで
電話番号
- 03-3872-5514
住所
- 〒110-0004 東京都 台東区 下谷 2-13-14
地図
アクセス(電車)
- 日比谷線の 入谷駅(4 番出口)から徒歩 3 分
- JR 線の 鶯谷駅(南口)から徒歩 7 分
アクセス(めぐりんバス)
- 北めぐりん(根岸まわり)の 入谷駅入口 停留所(停留所の番号:16 番)から徒歩 1 分
- 北めぐりん(根岸まわり)の 金杉通り 停留所(停留所の番号:10 番)から徒歩 2 分
- 北めぐりん(根岸まわり)の 根岸三丁目 停留所(停留所の番号:11 番)から徒歩 2 分
- ぐるーりめぐりんの 根岸三丁目 停留所(停留所の番号:3 番)から徒歩 2 分
めぐりんバスは台東区のコミュニティ バスです。台東区を観光する場合、めぐりんバスはとても便利です。めぐりんバスの詳細については、つぎの記事を参照してください。
北めぐりん(根岸まわり)とぐるーりめぐりんの停留所(乗り場)の詳細については、つぎの記事を参照してください。
アクセス(都営バス)
- 都営バス(上 26・草 41)の 入谷鬼子母神 停留所 から徒歩 3 分
公衆トイレの有無
- なし
参考
